「法の支配」より「人の支配」、「人質司法」の横行、「手続的正義」の軽視…
なぜ日本人は「法」を尊重しないのか?
講談社現代新書の新刊『現代日本人の法意識』では、元エリート判事にして法学の権威である瀬木比呂志教授が、日本人の法意識にひそむ「闇」を暴きます。
本記事では、〈刑事責任の根拠は「自由意思」なのに、実は「自由意思」は虚構かもしれない?…「犯罪の責任」について考える〉にひきつづき、応報的司法と修復的司法についてくわしくみていきます。
※本記事は瀬木比呂志『現代日本人の法意識』より抜粋・編集したものです。
犯罪者と私たちを隔てる壁は、本当は薄い
日本では、近年、犯罪者を私たちの世界から締め出す方向の言論、言説がますます増えている。特に、インターネットには、「犯罪者のために税金を使うな。犯罪者の弁護をする弁護士もその仲間だ」などといった、ヒステリック、エキセントリックなものまでがみられる。「犯罪者は、『正常な私たち』とは異なる人々。犯罪者は社会の敵。犯罪者の『味方』をする人々は偽善者」といった考え方、法意識が、私の若かったころよりもずっと強まってきていると感じられる。しかし、これは、少なくとも、先進国標準となりつつある理性的、合理的な犯罪、刑罰のとらえ方とは、全く逆の方向である。
私は、元裁判官の学者で長年実務と研究を並行して行ってきたリアリストだから、性善説も性悪説もとらない。また、死刑制度を採用しない場合に厳重に隔離しておくほかないような超サイコパス的犯罪者も、ごくまれには存在すると思う。そのわかりやすく誇張された例が前記のレクター博士だが、ある犯罪学の教授は、日本の重犯罪者の中にも、わずかな会話によって熟練の刑務官さえ思いのままに操作、洗脳してしまうため、接触については厳重注意とされている人々もいる、と語っていた。
だが、今挙げたようなごく限られた例外を除けば、犯罪者と私たちを隔てている壁は、実際には、きわめて薄いものである。裁判官としての経験(私は民事系裁判官だったが、刑事・少年事件についても短期間担当したほか、日米での相当期間の修習・傍聴等の経験はあるし、民事事件でも、犯罪者や犯罪者的傾向をもつ人々がからむケースは、そこそこ存在する)に基づいていえば、いわば、私たちは、生まれた時から、刑務所に代表される社会からの隔離施設の塀の上を歩いているようなものだと思う。塀の中に落ちるか外に落ちるかは、突き詰めれば、遺伝と環境の紙一重の違いで、また、単なる偶然によっても、左右されうる。
人間は社会的動物であり、その基本的な性格や性行は、実際には、遺伝と子ども時代の環境によって、かなりの程度に規定されている。これは、人間行動を研究する自然科学者のほとんどが認めることだと思うし、私もそう考える。
ここまで書いても、なお自分には関係のない話だと感じられる読者もいると思うので、ここで、あなたに、一つの質問をさせていただきたい。質問を読んだら、一度読む手を休め、その問いかけについて、しばらくの間内省を試みていただきたい。
「あなたが、これまでの人生の中で一番すべきではなかったと思う行為を、できる限り正確に思い出して下さい。
思い出したら、もし、自分が現在の記憶を失ってもう一度白紙から生き直すことができたとして、その行為をせずにすませられたかどうかを、考えてみて下さい」
いかがであろうか?私は、「その行為をせずにすませられたと思う」と答えられる人の割合は、かなり低いのではないかと思う。そして、そのことを踏まえてお考えいただきたいのが、もしも、この「一番すべきではなかったと思う行為」が犯罪に該当する行為だったとしたらどうしますか、ということである。
私は、一度、講義の最中に学生たちにこの質問をしたことがあったが、ほとんどの学生がどぎまぎとした表情を顔に浮かべ、うち数人の顔がさっと青ざめたのを記憶している。その後この質問をするのは差し控えることにしたほどに、学生たちの受けた衝撃は大きかったようにみえた。
たとえば、現代文学・実存主義文学の古典であり、既成の価値観にとらわれずに生きている一人の若者の人生を描いたカミュの『異邦人』の主人公ムルソーは、たまたま知り合った悪友とある夏の真昼に海岸の散歩に出かけ、悪友の敵との間で起こった喧嘩に巻き込まれ、衝動的に殺人を犯し、その結果、倫理観を欠く悪質な殺人犯として死刑を宣告される。しかし、ムルソーがたまたま先の悪友と知り合うことがなかったなら、変わってはいるが控えめで目立たない勤め人、個人主義者として、一生を無事に過ごした可能性も高いだろう。一方、ムルソーの時間が先の夏の真昼にまで巻き戻されたとしても、彼がやはり殺人を犯してしまう可能性も高いのである。
そして、こうした事態は、現実の事件でも、さほど珍しいことではない。人間の運命は、遺伝や育ち方のみならず、偶然によって左右される度合も非常に大きいのだ。